人生の裏側

人生の裏側 

あなたの神、本心に聞いてみたらいい!

私は、物心ついた頃から何となく神を信じていました。
多分、信仰的だった母がよく神様のことを話していたことに影響されたのか、自然にそのように観念に植えつけられたのでしょう。
ただ、一度も形ある一つのイメージ、像として思い描いたことは無いのです。どっかで神はそのように表せるものでないと感じていたようです。
やがてある宗教教団に入って、そのドクマチックに神についての教えを押しつけられて、“信じないとならない“という思いと、“いや、神はそんなものではない!“という反感が交じって葛藤を抱えるようになりました。
本心からその神の教えを受け入れたことは無かったのです。そしていつも私は、私の神、内なる神に尋ねるような心持ちがあったのです。外からの神信仰にあって、段々そのようになって行きました。
本心、内なる神に尋ねる...これは教団の儀礼的に行われていた祈りよりも、実質的な祈りだったと言えるのです。祈りは、一人一人の主体的、実存的なもので無くてなんであろう!
“私の神“は、先のように先見的なものに基づいていたのかもしれませんが、それだけでは片付けられないものを感じています。
人間は誰しも危急存亡の時、絶望の淵に立たされた時など、思わず神を思う、意識してしまうものではないでしょうか?...欧米人なんかは、“オーマイガッ!“と叫んだりして。そう“私の神“に!
普段神信仰などしていない者も、あるいは無神論を決め込んでいる者も!...
又、迷っている時、自分の進路を決めかねている時など、本心に尋ねようとするのではありませんか?
神のことも、自分の本心のことも私もそうであるように、分からないにも関わらず!...
神のことは、自分の本心に尋ねる...私に取って本当の神とは何であろう?
本心が分からなかったら、神にお聞きしたらよい!...私の本心は何ですか?...これは同じことじゃありませんか?、この二つは切り離すことが出来ない!
分からなくても...分からないということは、そう考えられていることなのであって、思考を超えたものというものは、予定されているのではないか?(予定と言っているものは、そこに予め導かされるもののことで、先入観念と結びつく予見、定見のことではありません)
これは、祈りと言っても瞑想と言ってもいい!...それは、一定の時間、ある形、方法に基づいて行われるものというより、意識的になる、思いを超えたものに意識を向ける、向けられることが、その根本的なことなのです。
神の存在、真我というものの実体のことなど分からないのだから知る必要はありません。
けれど、パッと意識するだけで、こうして何かそのようなものが感じられて来ないでしょうか?(言うまでもなく、それは自分の信念であるとか、“念じる“ということではありませんよ!)
この即応性というもの自体が観念に思い描かれたものでなく、我々の本来性に根ざしたものであることを物語っているのではないでしょうか?
これが本当かどうか、あなたの神、本心に聞いてみたらいいでしょう!...